街道沿いの拠点「宿場町」

街道に整備された宿場(宿駅)は、継立業務※1や飛脚業務※2を行う「問屋場」、大名宿舎の「本陣」、それに泊まりきらない場合の予備宿舎であった「脇本陣」、武士や一般庶民の宿屋の「旅籠」、その他に「御茶屋」、「商店」などの町家から成っていました。
また、街道を行き交う人や物資の増加によって宿場を中心にして形成された町を「宿場町」と呼びます。
現在、生活道路として使われている道にも宿場の面影を残す場所があり、
街道沿いの史跡を訪ね歩けば気軽に時代を遡り、歴史にふれられます。

  • ※1 継立業務…大名が宿場を利用するときに、必要な馬や人足を用意し次の宿場まで運ぶ業務のこと。
  • ※2 飛脚業務…書状や品物を次の宿場に届ける業務のこと。
宿場町の構成イメージ

宿場町の構成イメージ

※「国土技術政策総合研究所資料第723号」より転載

西国街道の宿場

  • 高森市(岩国市)

    藩主(毛利の殿様)や九州地方の大名の参勤交代の宿場町でした。御国廻御行程記(山口県文書館蔵)によると、その街筋を「高森市」と称し、市を通っている街道をはさんで北を上側(かみがわ)、南を下側(しもがわ)、玖珂に近い方を市頭(いちがしら)、西の市のはずれを市尻(いちじり)、その間を上市(かみいち)、中市(なかいち)、下市(しもいち)と分けて呼んだそうです。

  • 玖珂(岩国市)

    江戸時代の参勤交代があった当時、大名が通過する時に休憩や宿泊をする「御茶屋」がありました。この御茶屋は岩国市の玖珂小学校の辺りにあり、勅使などの役人はもとより、福岡の黒田氏や佐賀の鍋島氏、薩摩の島津氏など多くの大名が参勤交代などで玖珂を通過する時に利用されました。

  • 関戸(岩国市)

    錦川を挟んで北側より岩国城を臨む場所に位置する関戸。岩国城下から石州経由で本藩の城下萩へ至る街道(岩国藩では「石州街道」と呼ばれていました)が西国街道と交わる交通の要衝でした。関戸の地名は室町初期に安芸国境の関所が置かれたことに由来しています。江戸時代にはこの地に関所はなく、交通の要衝として宿場が成立し、享保年間には市街の長さ約350m、32軒の町並みが形成されていました。

  • 玖波(大竹市)

  • 廿日市(廿日市市)

    古くから佐西の浦と呼ばれ、鎌倉時代から交通の要衝の地に毎月廿日に定期市が立ち、廿日市の名が生まれました。江戸時代に西国街道の宿駅に定められ、馬15匹が置かれ、本陣は山田屋が代々務めました。津和野街道も通り、津和野藩の御船屋敷などが置かれ陰陽の交易の要所、また厳島参詣の中継地として繁栄し続けました。明治に佐伯郡役所が置かれ、現在は中央市民センターとなっています。

  • 広島(広島市)

  • 海田市(海田町)

    海と陸の交通の要衝として重要な役割を担った宿場町。御茶屋は熊野神社の西側の街道に面した場所に、脇本陣は旧海田公民館の敷地内にあったとされます。現存する「神保屋千葉家住宅」は天下送り役を勤め、時には上級武士の宿泊をも受け付けていたとされています。海田市を通過した尾張の商人菱屋半七は、「人家八百軒計、大形瓦葦にて宿屋茶屋商家多し」と宿場町としての繁栄を記しています。

  • 西条(四日市)(東広島市)

  • 本郷(三原市)

  • 三原(三原市)