山陽路や中国路とも呼ばれる、五街道(東海、中山、日光、奥州、甲州)以外の主要な脇街道の一つで、沿線の諸藩に管理が任されていました。水運が中心だった瀬戸内海沿岸の輸送から、次第に陸路を採用する藩が増えました。人や物の通行量の増加とともに、宿駅や港町の機能も発展していきました。幅員は2間半(約4.5m)あり、五街道とほぼ同様で、一里塚や街道松が残ります。
律令時代に七道中の唯一の大路として整備され、後には西国街道の礎となりました。京師=帝都と西都大宰府を結ぶ最も重要な幹線道路でした。公務を担う官人のため、馬の乗継ぎや食事や宿泊などを行う駅家が30里(約16㎞)ごとに配置され、駅家には20匹の駅馬が置かれていました。
津和野藩の参勤交代の道で和紙や穀類などの物資の運送、嚴島神社(廿日市市)、小島神社(吉賀町)、太鼓谷稲成神社(津和野町)などへの参詣道としても、とても重要な街道でした。現在も往時を偲ばせる石畳や、文化財に指定された神楽や伝説や神話が多数残っています。廿日市宿には御船蔵が置かれました。
江戸時代の寛政9(1797)年広島藩のお抱え絵師の岡岷山は、芸北山県郡都志見(現北広島町都志見)にある名瀑の駒ヶ瀧を見物する旅に出ました。広島城下を出発し、五日市、湯来、筒賀、加計を通って都志見に向かい、帰路は太田川を川船にて下り、広島城下に至る経路を行脚し、日記や諸勝図に著しています。
西国街道に沿う堺町から北へ向かい、可部宿から吉田や三次を通って出雲大社(後に松江城下)への道と、可部峠から大朝を通って石見大森銀山(後に浜田城下)へと向かう道が分岐し、街道の幅は7尺(約2m強)で代々藩主によって整備され、萩藩では毛利元就の墓参(吉田往来)のために利用されていました。
石見大森銀山は戦国時代から江戸時代にかけ、世界の銀の1/3を産出した大銀山でした。芸北新庄(現北広島町)から分岐し、幕府直轄領であった大森につながる道はいずれも警戒が厳重で、「橋ヶ原番所」と呼ばれる関所があったようです。文化10(1813)年11月14〜15日に伊能忠敬の支隊の測量が行われました。
浜田藩の参勤交代の道で、現北広島町の本地と中山は浜田藩一行の宿泊場所として賑わっていました。現在の国道261号とほぼ重なりますが本地~可部間は異なり、可部峠を越し南原峡へ出ました。この道は頼山陽始め武一騒動時には百姓や鎮撫隊、明治39 (1906)年には乃木希典将軍一行も通ったといわれます。
石見大森銀山で産出された銀地金を、陸路で瀬戸内海へ運ぶために利用されていた街道の通称で、4つのルートがあるとされています。そのうちの一つは、通称「尾道道」または「石見路」と呼ばれています。全長約130㎞に及ぶ街道で、備後国の三次と甲山には宿場町が置かれ、一里塚松が植えられたといわれます。
諸説ありますが、三次浅野藩が参勤交代に利用したルートのうちのひとつで、三次街道とも呼ばれています。その街道にある飛地であった世羅町賀茂の地で一泊したとされています。現世羅町下津田には「町史跡光友の石畳」があり、当時のままの石畳を見ることができます。忠海は年貢米の積出港となりました。
本郷町から錦川の河口今津に至る約30㎞の街道で、関ヶ原の戦い後に初代岩国藩主の吉川広家が出雲から岩国に入ったとされ、藩主の領内巡検のために整備され、岩国地方で和紙の生産が盛んであったこともあり、原料などの運搬にも使われていた街道です。本郷から萩藩の山代街道となり、萩城下と津和野街道の津田宿に至り、岩国城下からは積出港の今津へと結ばれ瀬戸内に至ります。
山陽道(西国街道)小瀬渡しから、岩国城下東郊の錦川河口部を抜け、広島湾西岸から由宇峠を越えます。大畠から柳井の街並を南へ、室津半島の南端から上関に至ります。江戸時代に岩国藩主吉川氏の整備や、朝鮮通信使への物資輸送の経路として、古くから内陸と外海の交易路として柳井港の根幹をなしました。
岩国城下から山陽道(西国街道)と合い、玖珂宿から南の山間に至り、柳井の街並を通り、平生塩田(竪ヶ浜)へと至ります。平生塩田は岩国藩主吉川家に関係する大野毛利氏により造成され、竪=縦長の浜の意で周辺の開作とともに増産されました。岩国から平生へと海陸の物流の根幹として存在していました。
文化11(1814 )年、日向国の野田泉光院が下関から岩国への道中記に、2月21日に平生から室津へ向かい、「甚だ道悪し」と評しています。23日に室津を出て尾国村(平生町)に泊まり、翌日峠を越えて烏王の庄(伊保庄)に出て、柳井へ向かったと残されています。赤間関(現下関市)から36里で上関に至ります。
石見国浜田藩主は、草津東町(現広島市西区)に船屋敷を置き、浜田城下から中国山地を越え、瀬戸内海に出向いていました。伴・久地から宇佐・水内へと至り、澄合・穴から加計を通り、芸石国境の傍示峠を越え、金城から浜田城下へと結ばれました。よって、日本海と瀬戸内海とが内陸交易により繋がりました。
毛利輝元が吉田郡山から広島へ城下移設の際に、三篠川(三田川)沿いに整備した道で、吉田道または中郡道と呼ばれます。かつて安芸国府(現府中町)と高田郡家(現安芸高田市)と結ばれ、同郡三田郷への往来となり、三篠川舟運(三田船)を介し、向原(現安芸高田市)から広島城下に物資が運ばれました。